| 日向新太郎(福島県会津若松市・浄光寺) 会津藩士。日向左衛門倅。遊撃会沢隊。9月8日、飯寺で戦死。享年20歳。 |
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山本帯刀 長岡藩執政。河井継之助の人物をよく理解し補佐した。慶応四(1868)年5月、長岡で戦端が開かれると本陣において総督留守役となり、長岡藩第一大隊大隊長として長岡落城の際には殿として追手を阻み会津へ転戦した。9月8日飯寺で捕、才を惜しむ官軍より降伏を勧められるも拒否。翌日斬首。享年24歳。 | ||
| 阿部弥亀太 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 雨宮敬一郎 飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 稲垣喜助 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 永相亀太郎 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 大宮平太 銃卒。 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 岡本甚十郎 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 勝沼留吉 望月忠之丞従者。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 川越辰次 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 神戸菊五郎 銃士。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 佐野伊野七 銃卒。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 佐藤正吉 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 篠崎繁右衛門 銃士。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 篠田愛作 銃卒。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 新与源次 山本帯刀家来。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 千本木林吉 銃卒隊長。9月8日、飯寺で捕、斬。享年28歳。 | |||
| 高橋辰蔵 銃卒。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 高橋彦右衛門 銃卒。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 田島十次郎 銃卒。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 辰次 中間。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 寺田善右衛門 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 鳥居留五郎 銃士。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 内藤作之助 銃士。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 中川音三郎 銃士。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 中沢虎市 銃卒。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 長沢金太郎 馬屋番から崇徳館教授。戊辰役では使番として活躍。9月8日、飯寺で戦死。享年49歳。 | |||
| 中島富弥 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 長島平八 銃士。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 永戸九郎左衛門 銃士。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 能勢彦太郎 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 増井弥平 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 松井松五郎 銃士。9月8日、飯寺で捕、斬。享年不明。 | |||
| 丸井菊五郎 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 室橋政七 9月8日、飯寺で捕、斬。享年不明。 | |||
| 八木藤太 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 安田大太郎 銃卒。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 山口辰次郎 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 山本慶山 9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 吉田充太郎 銃卒。足軽。9月8日、飯寺で捕、斬。享年15歳。 | |||
| 渡部三平 山本帯刀家来。9月8日、飯寺で戦死。享年不明。 | |||
| 渡辺豹吉 山本帯刀従者。9月8日、飯寺で捕、斬。享年不明。 | |||
| 慶応四(1868)年7月29日、北越戦争は最期のときを迎えました。西軍が一斉に長岡城めがけて進撃、ついに落城となってしまいます。失意のうちに長岡を後にした長岡藩総督河井継之助、山本帯刀さんらは越後と南会津を結ぶ天嶮・八十里越を通って会津へ向かいました。しかし河井さんは負傷のために会津塩沢で死去、山本さんが長岡藩士を率いて会津戦争に参加します。9月5日、薩摩の中村半次郎率いる西軍の日光口支軍が到着、鶴ヶ城の西南西・飯寺に布陣していたところに、長命寺で痛い敗北を喫した会津の猛将佐川官兵衛さんが秀長寺付近に布陣して砲撃を仕掛け、これが西軍を大混乱に陥れます、さらに進撃隊が背後を突いたために被害は拡大、結果としてこの戦いは会津戦争中会津藩唯一の勝ち戦になったのです。しかし数に勝る西軍が結局飯寺を押えたために鶴ヶ城は補給路を断たれることになりました。 そこで再び飯寺を奪還し補給線を確保するために西軍攻撃を敢行することになりました。9月8日未明、会津軍は飯寺に布陣する薩摩・館林・黒羽などの諸藩で構成される西軍に攻撃をかけますが、雨と霧という悪天候に加えて西軍に続々駆けつける援軍のために会津軍は退却を余儀なくされました。 このとき山本さん率いる長岡大隊は、北から会津藩主力軍に攻められる西軍を挟撃するため西軍の南方に回りこんでいました。ところが主力軍の予期せぬ敗退により、長岡大隊は敵の真っ只中に取り残されてしまったのです。退路もなく、戦う以外に術の無い長岡隊は奮闘虚しく壮烈に散っていきました…。 殉節碑には「山本帯刀以下四十三名」と記されていましたが、今回確認できたのは41名でした。あとは月日が特定できないために今のところわからない状態です。 山本さんは何と言うか凄い家柄の方でして、長岡藩では家老職に就く五家の1つで、先祖を辿ればあの甲斐の武田信玄の軍師山本勘助に行き着くとか(山本勘助の弟・山本帯刀の系らしいですが、なぜかこの弟は越後の上杉謙信の臣だそうで、しかもその謙信から家康に譲られてしまいました。その後どうなったかよくわかりませんが、流転の末越後に戻ったんでしょうかね?)…。山本さんの死後お家は断絶するも牧野忠篤初代長岡市長の計らいで、山本さんと共に北越戦争を戦い長岡城で散った長岡藩士高野秀右衛門の孫に山本家を継がせました。それが後の連合艦隊司令長官山本五十六大将です。歴史の皮肉なのか、山本大将はアメリカとの戦争を誰よりも避けたかったのに、結果としては真珠湾奇襲攻撃で開戦の口火を切る役割を課せられてしまいました。そのときの思いはかつての河井継之助さんと同じものだったかもしれませんね。 |
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